ミャンマークーデター問題について分かりやすく解説

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ミャンマーのクーデター問題についてわかりやすく解説

2022年2月11日

 

2022年2月1日にて、ミャンマー軍がクーデターを起こして全権掌握を宣言してから1年が経ちました。

でも「なぜ軍はクーデターを起こしたのか」「ミャンマーはどうなってしまっているか」を知っている方は意外と多くないと思います。

今回はそんなミャンマーの問題について、わかりやすく・出来るだけ簡単に解説していきます。

簡単に分かる、ミャンマーのクーデター問題について解説。

ミャンマー軍がクーデターを起こし、全権を掌握。

2021年2月1日、ミャンマー軍が与党:NLD(国民民主連盟)の大統領等を拘束し、軍側の総司令官が全権を掌握したと宣言しました。

なぜ、ミャンマー軍はクーデターを起こしたのか。

総選挙に不正があった為と主張

2020年11月にミャンマーで総選挙が行われました。

結果的にNLD(国民民主連盟)が圧勝し、軍部の後ろ盾を得ている最大野党・USDP(連邦団結発展党)が惨敗。

ただ、軍側はこの結果に不正があったとして反発し、選挙のやり直しを求めていましたが、NLD政権がその指摘に対応しなかった為にクーデターを起こしたと主張しています。

本当は軍の影響力低下を懸念?

2011年に民政化したミャンマーですが、元々軍政政府だったので憲法は軍に有利な内容になっています。

民政化後に政権を取ったNLDは憲法改正を公約に掲げており、NLDの力が強くなっている事に危機感を覚えた軍がクーデターを起こしたのだと考えられています。

ミャンマーのクーデター問題について、しっかりと分かりやすく解説。

「簡単に分かる、ミャンマーのクーデター問題について解説」の通り、そもそもは軍政国家だった事が一番の要因となってクーデターが起きています。

まずは軍政国家から民主化が叶うまでの、ミャンマーの歴史から見ていきましょう。

※「ミャンマー」という国名は1989年に「ビルマ」という国名から変わったので、1989年までは「ビルマ」という国名を使用します。

ミャンマー:軍事政権の歴史

イギリスからの独立

元々イギリスの植民地だったビルマ(ミャンマー)は、1948年にイギリスから「ビルマ連邦共和国」として独立を果たします。

独立後のビルマ与党はAFPFL(反ファシスト人民自由連盟)と言い、民主主義的な考えを持った政権でした。

ただ、AFPFLは一貫して与党の座にあり続けたことにより、組織の腐敗と派閥抗争を生じさせ、ビルマ共産党の勢力伸張による社会騒乱を招いてしまうという結果が生じてしまいます。

これに軍が漬け込み、1962年にクーデターが勃発した結果、軍事政権の樹立・社会主義国へ代わっていきました。

AFPFL(反ファシスト人民自由連盟)とは

1945年8月ビルマ (現ミャンマー) の完全独立を目指してつくられた組織の事です。

このAFPFLの初代総裁は「アウンサン」で、あの「アウンサンスーチー」の父にあたります。

「アウンサン」は『ビルマ建国の父』として敬愛されていますが、独立反対派に暗殺されてしまいます。

アウンサンが暗殺された事により、ウー・ヌが総裁を継ぎ独立後ビルマの初代首相になりました。

クーデターによりAFPFLから第1次軍事政権へ

上でも書きましたが、1962年にクーデターが勃発した結果、軍事政権の樹立・社会主義国へ代わっていきました。

元々は「ビルマ連邦共和国」として独立しましたが、このクーデターにより「ビルマ社会主義共和国」へと名前が変わりました。

ただ、この第1次軍事政権は、経済政策の失敗から深刻なインフレを招く等、ミャンマーの経済状況を悪化させることになります。

結果として、若者を中心とした軍事政権に反発する力が強くなり、ビルマは民主化の方向で進んでいく流れになったのですが、このタイミングで軍がクーデターを起こし、1988年に第2次軍事政権が樹立されます。

第1次軍事政権から第2次軍事政権へ

1988年、軍のクーデターにより第2次軍事政権へ切り替わりました。なぜ同じ軍なのにクーデターが起きたのでしょうか。

理由としては、民主化をよく思わずに引き続き軍主導の国づくりをしたいと考える勢力が軍隊の中にあり、その勢力がクーデターを起こした為と言われています。

また、このクーデターののち、国名を「ビルマ社会主義共和国」から「ビルマ連邦」へと改名しました。そして、1990年に「ビルマ連邦」から現在の「ミャンマー」へと変わっていきます。

総選挙を行う事を認める

第2次軍事政権樹立後も民主化運動は止まず、結果として『総選挙を行う』事を決めます。

なので1988年には全国で数百の政党(民族政党含む)が結成されるに至りました。

軍側は国民統一党を結党し体制維持を図った一方、民主化指導者アウンサンスーチーは国民民主連盟 (NLD) を結党し、民主化運動に力を入れていきます。

総選挙結果、軍側が完敗したが政権は変わらず。

1990年に総選挙が行われ、軍側は完全敗北・NLDと民族政党が圧勝したものの、軍政は選挙結果に基づく議会招集を拒否します。

結果として、政権が変わらなかったどころか、軍は民主化勢力の弾圧を強化する事になります。

その一つとして、NLDのトップ:アウンサンスーチーを自宅軟禁にしてしまいます。(この後も自宅軟禁を一時的に解かれたりもしますが、結局また自宅軟禁になったりと、最終的に自由になったのは2011年になってからでした。)

様々な改革が行われ、ついに民主化へ

2007年10月に軍出身のテイン・セインが首相へ就任すると、軍政体制の改革が開始されます。

このテイン・セインの代で、2008年に新憲法案についての国民投票が実施・可決され、民主化が計られるようになります。

また、テイン・セインは、メディアの自由化の促進、国民の人権を脅かす法律の廃止なども実施し、諸外国からこの対応を歓迎されました。

これらの改革によりミャンマーは欧米諸国をはじめとする国際社会との関係改善を実現し、グローバル経済へ再参入し、経済成長を追求する国際環境を獲得することになりました。

★ なぜテイン・セインは今までしてこなかった(出来なかった)民主化へと進められたのでしょうか

あくまで色々と調べてきた中での私なりの考えですが、テイン・セインは非常に真面目な人物であり、利権や汚職などのスキャンダルに見舞われず他の将軍たちに比べてクリーンだという事もあり、権力に驕ることなく現実的にどうすればより良い国作りが出来るのかを考えていたのだと推測しています。

ミャンマー:民主化後の歴史

2010年総選挙について

2010年に新憲法に基づく総選挙を実施

2010年11月に新憲法に基づく総選挙が実施されました。

ミャンマー当局はこの選挙を「民主化へのロードマップ」と位置づけており、対外的にも軍政政権からの切り替わりをアピールしようとしていたと考えられます。

ただ、結果的には37政党が選挙に参加したものの、軍政与党であるUSDPが連邦議会と地域・州議会のいずれでも8割近い議席を獲得して圧勝した。

これは、USDPが人気があったという訳ではなく、選挙の不正や他の政党に不利な状態(準備期間から選挙までの期間の短さ等)だった事が理由とされています。

これは国内だけでの疑惑ではなく、ミャンマーの選挙管理委員会が総選挙前に、外国の選挙監視団や記者を受け入れない方針を示した事も、選挙の正当性についての国際社会の疑問が強まっている理由となっています。

「新憲法」の説明と問題点
「新憲法」の内容

「ミャンマー連邦共和国憲法」といい、ミャンマーの憲法となります。

この憲法は、

前文」「1. 連合の基本原則」「2. 国家構成」「3. 国家元首」「4. 立法府」「5. 実務」「6. 司法」「7. 防衛」「8. 市民及び、市民の基本的権利と義務」「9. 選挙」「10. 政党」「11. 非常事態に関する規定」「12. 憲法改正」「13. 国旗、国璽、国歌と首都」「14. 暫定規定」「15. 一般規定」

の前文+15章で構成されているのですが、現在に続く問題があります。

それは「国軍の特権」です。

新憲法における国軍の特権問題

国軍は2008年憲法の下で様々な特権を保持しています。

議会の議席の25%が国軍に割り当てられているほか、国防省内務省国境省の大臣の任免権は大統領にはなく、国軍総司令官にある事と決まっています。また、議会で選出される2人の副大統領のうちの1人は国軍出身者から選ばれるようになっています。

こうした国軍の特権に対して、民政復帰後の国家指導者(特に、2015年総選挙で政権党となった国民民主連盟)は治安機関にほとんど影響力を行使することができない状態となっていました。

「新憲法に基づく総選挙」とは

「新憲法に基づく総選挙」というのは、2008年制定の新憲法に基づいて複数政党制により行われた、軍政ではなく民主的な総選挙です。

両院制の連邦議会(人民代表院と民族代表院)と14の地域・州議会の議員を選出する三つの選挙が同時に行われ、有権者は3票(人民代表院・民族代表院・議員)を投票しました。

アウンサンスーチー率いるNDLは選挙ボイコット

ミャンマー民主化指導者であるアウンサンスーチーの党である国民民主連盟(NLD)は選挙をボイコットすることを決定し、2010年5月に解党しました。

NDLの中でも選挙に参加すべきという一派がNDF(国民民主勢力)として選挙に参加したが、選挙非難をしていたアウンサンスーチー等は不参加で政党の顔が居なくなってしまった為、支持は広がりませんでした。

2010年の総選挙後

この総選挙の結果、首相のテイン・セインは総選挙の結果を受けて召集された連邦議会の議決を経て大統領に就任します。

また、民主化に伴い、国家平和発展評議会 (SPDC/軍政時代の最高決定機関) は解散し、SPDCの権限は新政府に移譲されることになります。

この段階では、表面上民主化はされたものの、権利を握っているのは軍政与党であるUSDPなので、民主化といえど軍政府となっています。

その為、2010年総選挙は他国から「茶番劇」や「見掛け倒し」と言われてしまいます。

2015年総選挙について

2015年総選挙の結果

2015年11月8日、民政復帰後では初めてとなる総選挙が実施され、NLDが圧勝した。

NLDは党首のアウンサンスーチーの大統領就任を要求したものの、憲法の規定によってそれはかなわず、次善の策としてスー・チー側近のテイン・チョーを自党の大統領候補に擁立しました。

ティン・チョーは2016年3月10日に連邦議会で大統領候補に指名され、3月15日には正式に大統領に選出、3月30日には連邦議会の上下両院合同会議で新大統領就任式が行われた。

ミャンマーで文民大統領が誕生するのは54年ぶりで、半世紀余に及んだ軍人(及び軍出身者)による統治が終結した。

さらに、NLD党首のアウン・サン・スー・チーが国家顧問、外務大臣、大統領府大臣を兼任して政権の実権を握ったことにより、新政権は「事実上のスー・チー政権」と評されています。

なぜアウンサンスーチーは大統領になれないのか

憲法の規定によってアウンサンスーチーは大統領になれなかったと書きましたが、これについて詳しく解説します。

憲法の規定とは

「憲法の規定によって大統領になれない」というのは、以下のミャンマー憲法の内容が元となります。

これは2008年憲法の第59条の規定で決まっており、以下のように書かれています。

本人、両親、配偶者、子どもとその配偶者のいずれかが外国政府から恩恵を受けている者、もしくは外国政府の影響下にある者、もしくは外国国民であってはならず、また、外国国民、外国政府の影響下にある者と同等の権利や恩恵を享受することを認められた者であってはならない。

 

アウンサンスーチーは、亡きイギリス人夫のと間に2人の子がいる関係で、憲法上大統領になれないのです。

ただ、そもそもこの条項はアウンサンスーチーか大統領になれない為に軍が作ったと考えられています。

憲法の改正は出来ないのか

新政権は「事実上のスー・チー政権」とされているが、そもそも総選挙で圧勝したNLDなら、頑張れば憲法を変えられるのでは?と思う方がいらっしゃるかもしれません。

ただ、ここで問題になってくるのが議席の数字です。

ミャンマー憲法の改正には、議員定数の「4分の3を『超える』」賛成が必要です。

しかしながら、憲法には「議会の議席の25%が国軍に割り当てられる」と記載していますので、もし国軍以外の議席定数4分の3で憲法改正をしたいと考えていても、憲法改正に必要な4分の3を「超える」数とはなりません。あと1人の憲法改正に対して賛成議員が必要です。

「このあと一人」というのは必然的に軍人議員となりますが、勝手に賛成する議員がいれば軍からの罰があるのは確実ですので、現状の制度だと憲法改正はほとんど不可能です。

2020年の総選挙とクーデター

2020年総選挙の結果

2020年11月に総選挙が実施され、スーチー氏率いるNLDは憲法改正を昨年の総選挙の公約に掲げ改選議席の8割を超す議席を得て圧勝し、国軍系の連邦団結発展党(USDP)は惨敗という結果になりました。

しかし軍部はこの選挙結果を不服とし、裏付ける証拠はほとんどないにも関わらず「不正選挙が行われた」と主張しました。

2021年に軍事クーデターが起きる

総選挙後の初の議会が開かれるはずだった2021年2月1日、軍部は軍事クーデターを起こし、ウィンミン大統領やスーチー国家顧問を拘束し、国軍総司令官が全権を掌握したと宣言しました。

翌2日には軍事政権として国家行政評議会(軍政時代の最高決定機関)が改めて設置されてしまいます。

クーデターを起こした理由

憲法改正には国会の4分の3超の賛成が必要で実現のハードルは高いものの、危機感をもった軍が影響力の退潮を食い止めるにはNLD政権2期目が始まる前のこのタイミングしかないと判断し、クーデターに踏み切ったとみられています。

クーデターに対するデモが勃発

国内ではクーデター直後から民主化を求めるデモ活動が行われたり、クーデターの正当性を認めない議員が事実上の臨時政府を設置しようと試みる等、国内でも軍事政権に対して敵対しています。

これに対し、軍事政権は力によってクーデターに反対する活動を弾圧しようとしており、治安部隊の発砲によって非武装の民間人に死者が多数出ています。

しかしながら、反クーデター勢力は軍事政権に対抗する姿勢を崩しておらず、ミャンマー内戦の激化が懸念されている現状があります。

クーデターに対する各国の反応

クーデターを受け、国外ではアメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国、日本、インド、国際連合、欧州連合(EU)が、軍部に対しスーチーらの解放と民政復帰を求める声明を発表しました。

その後、軍部の弾圧により抗議デモへ参加した市民が大勢死傷したことを受け、アメリカとEUはミャンマー軍関係者に対する制裁を開始しましたが、軍政側は「今後ミャンマーは中国等の近隣5か国と関係を強化し、価値観を共有することで欧米には屈しない」とする決意を表明しました。

さいごに

今ミャンマーは民主化を求める民衆と軍事政権で争いが起こっている現状がある事がよく分かります。

軍事政権になってから、ミャンマーの通貨(チャット)が下落・医薬品やガソリン代の価格が上昇と、国民にとって良いことがない状態が続いています。

日本という国に住んでいると日々平和と思ってしまいますが、世界に目を向けると逆に平和な状態が奇跡なのかなと感じます。

軍事政権が終わってまた改めて民主化が進んで欲しいと願う一方、一度甘い汁を啜った軍は出来るだけその権利を離したくないことは想像に難くありません。

引き続きミャンマー問題に目を向けていきたいと思います。

参考資料

日本経済新聞

朝日新聞digital

朝日学情ナビ

BBCnews

kyoto review

LEXOLOGY

JICA

wiki ミャンマー

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