30秒で分かる、北方領土問題
北方領土問題=ロシアの不法占拠
元々日本が統治していた北方領土(択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島)を、1945年にロシアが占領、1946年にはロシアが一方的にロシア領に編入させました。
ロシアによる北方領土の一方的な占領・編入に関する問題・それに対する日本の返還主張を総じて「北方領土問題」と言います。
元々北方領土に住んでいた日本人は?
元々、北方領土には4島合わせて約17,000人が住んでいましたが、1948年までに全ての日本人は強制退去させられてしまいました。
より詳しくわかる、北方領土問題
最初にお伝えする事項として、北方領土問題を少しややこしくしているものがあります。
それは「北方領土」は日本の領土から変わっていないものの、「北方領土周辺(樺太・千島列島)」の領土は日本・ロシアで変わっているという点です。
この「北方領土」「北方領土周辺(樺太・千島列島)」を同時に説明しているという点が、全体像の理解を少し難解にさせています。
なので、この記事では『北方領土問題』に主に関係する「北方領土」について詳しく解説し、「北方領土周辺(樺太・千島列島)」の話は重要な部分をまとめて解説するように致します。
北方領土の位置
北方領土とは、北海道の北東部に位置する択捉島(えとろふとう)、国後島(くしなりとう)、色丹島(しこたんとう)、歯舞群島(はぼまいぐんとう)の四つの島々のことを言います。
北方領土の歴史
日本が北方領土を開拓
北方領土は、もともと先住民族としてアイヌ民族がいましたが、17世紀初めにはすでに日本とかかわりをもち、18世紀末からは江戸幕府の直轄地として、日本人の手によって開拓されていました。
なぜ日本は北方領土を開拓したのか
これにはロシアの「南下政策」が関係してきます。
「南下政策」については後述しますが、その過程において、ロシアはウルップ島に開拓民58人を送り、ロシアの基地を建設していきます。
このようなロシアの千島列島進出は、日本国内に「ロシアが日本の近くの島まで進出してくる」という一つの脅威になりました。その為、江戸幕府は天明5年(1785)に北方領土と千島列島へ役人をおくることを行いました。
そして、北方領土の地図を作成したり、アイヌの人たちの生活の様子、ロシア南下の実情を実地調査したりしながら、北方領土の統治へと向かっていったのです。
ロシアとの国境が決まる
日本とロシアの国境は、1855年に結ばれた「日魯通好条約」で択捉島とウルップ島の間と決められました。
ロシアは日本との話し合いの中で「択捉島もロシアのもの」として主張してきましたが、日本は「択捉島は日本が開拓し、日本人が住んでいるので日本のもの」と主張し、結果的に日本の意見が通りました。
1855年の日魯通好条約以降、北方領土は現在に至るまで日本の領土
北方領土近くにある「樺太」や「千島列島」は、日本領になったりロシア領になったりしていますが、「北方領土」は一度もロシア含め他国の領土とはならず、一貫して日本の領土となっています。
ソ連(ロシア)が北方領土を一方的に占領
第二次世界大戦終了後の1945年、ソ連は突如として千島の島々(北方領土の北東側)に上陸し、同年9月5日までに千島の島々と歯舞群島、色丹島をすべて占領しました。
その当時、歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島には約1万7千人の日本人が住んでいましたが、ソ連の命令で1948年までに日本へ強制的に引きあげさせられてしまいました。
日本ではこれらの元島民を中心に、戦後すぐに返還要求運動が始まりましが、依然としてロシアは日本へ北方領土の返還を行なっておらず、問題が続いています。
ロシアの主張
ロシアがこの北方領土の占領を正当化する理由に「ヤルタ協定」が挙げられます。
この協定は昭和20年(1945)2月、アメリカ合衆国、イギリス、ソ連が、ソ連にある保養地ヤルタに集まって取り決めた秘密協定です。
ヤルタ協定の内容は「ソ連が日本に対する戦争に参加すること。日本の敗戦において、樺太の南部とこれに隣接する一切の諸島はソ連に返還され、千島列島はソ連に引き渡される」というものでした。
ロシアは【この千島列島は北方四島を含む島々である】と主張しています。
しかしながら、そもそもこの協定はあくまで軍事協定にすぎず、条約ではなく国際法としての根拠を持っていない事に加え、当事国が関与しない領土の移転は無効という国際法にも違反しています。
米国は戦後に日本の立場を支持
米上院は1951年にサンフランシスコ講和条約を批准承認する際、ソ連に有利となるヤルタ密約の項目を「含めない」との決議をし、アイゼンハワー政権も1956年に「無効」を発表しました。
2005年には当時のブッシュ大統領も「ヤルタ会談は史上最大の過ちの一つ」と批判しています。
つまり、米国もソ連の法的根拠を認めない姿勢を示しています。
なぜロシアは北方領土を求めたのか
北方領土は軍事的価値が非常に大きい
四島は太平洋への出口に位置しており、アメリカ軍と対峙する場所でもあります。
ロシアにしてみれば、この地を基地化することで太平洋でのアメリカ軍の活動を抑止することができる為、そうやすやすと手放すわけにはいかないと言われています。
現実の動きとして、国後島と択捉島にはすでに艦艇攻撃用ミサイルや新型戦闘機が配備されており、ロシア軍による北方領土での軍事演習も増えています。
ロシアのこうした動きの背景には、北方領土を自国の領土だと誇示するとともに、アメリカを牽制する目的もあると考えられています。
ただ、北方領土の戦略的な重要性が高まり、ロシアの実効支配が強まれば強まるほど、日本への返還が困難な道となっているのが問題となっています。
不凍港を求めた南下政策の一つ
ロシアの国土は、冬が長く、寒冷・多雪などといった現象をもたらし、一部を除けば農業生産は必ずしも高くなく、港が凍ってしまい使えない時期が出てきます。
その為、よりよい環境を求めて未開発の周辺地域に移ろうと努め、より温暖な南方の土地を求める願望には根深いものがある。
温暖な南方へ向かう政策を南下政策と言いますが、その一環として北方領土にも進出してしたとされています。
北方領土周辺(樺太・千島列島)の歴史
1855年:日魯通好条約
日本とロシアにより、日魯通好条約が調印され、択捉島とウルップ島の間に国境が法的に確認され、樺太は従来どおり国境を設けず、両国民の混住の地とすることが定められた。
※ 赤色:日本領 黄色:ロシア領
1875年:樺太千島交換条約
1875年には樺太千島交換条約を結び、千島列島をロシアから譲り受けるかわりにロシアに対して樺太全島を譲渡しました。
このとき日本に譲渡されることとして列挙された千島列島の島名の中には、北方四島の名称は含まれていなかった事から、当時から千島列島には北方四島が含まれていないことが分かります。
※ 赤色:日本領 黄色:ロシア領
1905年:ポーツマス条約
1905年には日露戦争の結果、ポーツマス条約が締結され、北緯50度以南の南樺太が日本に割譲されました。
それ以外の領土は「樺太千島交換条約」の時と変わりません。
※ 赤色:日本領 黄色:ロシア領
1951年:サンフランシスコ平和条約
第2次世界大戦後の1951年にはサンフランシスコ平和条約が署名され、日本は千島列島と北緯50度以南の南樺太を放棄しました。
同条約にいう千島列島には北方四島は含まれていません。
※ 赤色:日本領 黄色:ロシア領 白色:日本が「領を放棄した」のみ
この流れを見てもわかるように、北方領土周辺は領地国が変わっていますが、北方領土は一貫して日本の領土となっています。
また、歴史的に「千島列島には北方四島が含まれていない(樺太千島交換条約参照)」としているのに、現代において「千島列島は北方四島を含む島々である」と主張しているロシアは誤っていると考えられます。
さいごに
以上が北方領土の問題となります。
ロシアという国は世界最大の国土を持っているものの、北方領土しかりクリミア問題しかり、不凍港を求めて他国へ侵攻するというのが見られます。
軍事的・経済的に自国を守りたいというのは当然ですが、それでも国同士で決めたルールを破るというのは、結果的に争いが起きてしまいますよね。
自国に都合の悪いルールは破って、都合の良いルールだけを尊重するというのがまかり通ってしまうと世界の秩序が守られません。
(現段階でも守られているとは到底思えませんが...。)
世界が平和であれば一番いいなと思いつつ、結局自分が一番可愛い人間のすることですので、そんなことは無理だよなと思ってしまう悲しい事実。
ということで今回はここまで。
次の記事にて!
参考資料
・外務省
・別海町
・産経新聞